あると思っている物が、本当に存在するのだろうか。
ないと思っている物が、本当に存在しないのだろうか。
ブライダルビデオの編集にここ何年も携わってきました。
ブライダルビデオの業界が低迷し「一回見たらもうみないしね」と言う言葉を残してご注文がいただけなかった時代に、「では何度も見てもらえるブライダルビデオを創ってみよう」と当時でてきだした「ノンリニア編集」を武器に自分で創ってみることにし、ブライダルビデオの内製化をスタートしました。
幸い、この志に共感してもらえる沢山の仲間に恵まれ、販売から撮影〜編集に沢山の人が関わってくれることとなり、お客様からも大変喜んでいただけるようになり「何度も見てもらえる」ブライダルビデオに成長を果たしました。私以外の沢山の人々の協力が得られなければ「あい・えん」は産まれなかった事でしょう。本当に心から感謝をしています。
さて、そんな編集をする毎日の中で、実は「本当にここで映像を切ってもいいのだろうか」いわゆる「カット」編集という物に、常に疑問を抱きながら編集をしているのです。
編集を始めた頃は、テレビや映画、ドラマ等のいわゆる「カット」された映像に比べて、同じようにカットされた「自分の編集した映像」に違和感を感じたので、必死でつなぎ目がどうなっているのかを研究したものです。その結果として色々な法則性を見いだし、「なるほど」というものを感じられるようになり、編集自体が人に与える影響、また編集した映像をキャメラマンに見せることによって、キャメラマンも「俯瞰逆算」ができて、何を撮影し、何を残したら「映像で幸せに」の経営理念に合うかが明確になり、更に私たちとお客様の「主客合一発達」が出来る事も発見できました。
しかし、だからといってこの「本当にここで映像を切ってもいいのだろうか」という疑問は完全に消え去ったわけではありません。
これは音楽を考えて見れば、容易に想像できます。「ドレミファソラシド」とその間の「黒鍵」しかない状況で、完璧な方法論や理屈が音楽を創るのであれば、自ずと限界が産まれそうですが、今なお人間によって様々な音楽表現が試されている事実を見ると、「映像」や「映画」・「編集」といった言葉で、何か一括りにしてしまうのはとても危険な行為であることには違いないと思います。
「映画」というのも、映画館へ行ったら見られるわけですが、では「映画」とはいったい何なのか、と問われて正確に答えることが出来るでしょうか。クレーンやセットを使えば映画なのだろうか。画質が綺麗であれば映画なのだろうか。監督が居れば映画なのだろうか・・・・
それらは殆どが「形式知」の範囲内で、本当の事実(映画の暗黙知の部分)を指し示せてないと思います。
また「ブライダルビデオ」も同じで、経験したこともない(兄弟や友人のビデオを見ることで疑似体験はしているかもしれないが、自分自身の事として実体験をしたわけではない)のに、「一度しか見ない」と決めつけていたのは一体何だったんだろう。
つまりこれらは、形式的に「見えやすい物」ばかりが先行し、それが情報となってその「情報が有る」ことによって「そういうものがそこにある」という認識になってしまっているのではないでしょうか。
逆にそこに潜む本当の事実(映画を見て泣いたり喜んだりするように、ブライダルビデオを見て同様に泣いたり喜んだりする事実)は「暗黙知」に当たる物ではないか。であるならば、有ると認識している物(一回見たら二度と見ないようなブライダルビデオ)は本当はそこにはなく、無いと思っている物(ブライダルビデオを見て心が揺さぶられる、それも私達は5年・10年・20年後も機能する一生モノを写真・ビデオで目指しています)が事実そこに存在することになる。
さて、先日子どもに連れられて本屋へ行った際にある本を手にしました。本の邦題は「映画の瞬き」(この瞬きという言葉について、本書では奥深いことが語られていく・・・)ウォルター・マーチ(地獄の黙示録等を編集した人)著である。本当に偶然の縁でした。
本の帯をみて、何か「神の啓示」を得たような感覚を覚えました。
「画面を息づかせる<編集>の極意」
表紙をめくってみるのには充分すぎる文字列でした。そしてその中身は「方法論」や「形式知」が書いてあるのではなく、私がブライダルビデオの編集に携わって疑問を持ち続けている「本当にここで映像を切ってもいいのだろうか」という疑問に真っ正面から取り組んでいるのでした。「なぜカットが機能するのか?」その章の2〜3行は本を買う判断をするには充分でした。
さて、実際に買って読んでみると私が編集を通じて遭遇してきた様々なことがすべて網羅されていました。腑に落ちる部分もあるし、また逆に勘違いしていたことや、私の考えが浅すぎて反省させられる事もありました。かなり深く掘り下げられており、「編集」という物に対して沢山の気づき、学びの得られる内容でした。
特に「映画」という物に対しての「再定義」(映画の定義そのものが私の中になかったのですが)「再認識」をせざるを得ませんでした。
その結果なにが「感情」として残ったかというと、毎日編集をしているブライダルビデオは「映画になりうる」ということ。ただしこれは簡単なことではありません。今まで時間を掛けて、協力してくれたすべての人々と、思いを一つにし、「映像で人を幸せにするには何を撮影すればよいのか」という簡単に答えが出ないことに、現在も常に挑み続けているからこそのことで、単に映像を「仕事」と割り切って「販売」し、「仕事」と割り切って「撮影」し、「仕事」と割り切って「編集」していては得られないことだからです。
今まで、自分とは関係ないと思いこんでいた「映画」というものが実は私達の手の中に有ったのです。
あると思っている物が、本当に存在するのだろうか。
ないと思っている物が、本当に存在しないのだろうか。
「無い」ということを「自分自身が正直に認識できたら」実は無いのではなく手に入れていないだけで、既に周りに、それも比較的に手の届くところに有ることに気づくことが出来る。「手に入れられないのは自分が手を伸ばさないだけだ。」と、
また有ると思っている物は「形式知」としてとらえている場合が多い。見えやすい側面だけを見てしまっている場合は、まだ本当の事実に気づいていないといえるかもしれない。その「暗黙知」のレベルの事が認識できていないとしたら、本当は「無い」、手に入れていないのかもしれない。
「ブライダルビデオは映画になりうるのか」
一冊の本が気づかせてくれたこと、
「私たちの考えるブライダルビデオは既に映画となっていた」のです。
映像に興味のある方は是非読んでみてはいかがでしょう・・・
ウォルター・マーチ著「映画の瞬き」フィルムアート社刊
for coming your life おばた
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○やまなし塾の岩本です。:小畑 様
お元気様です!!
「本当にここで映像を切ってもいいのだろうか」という疑問
について感じた事なのですが、「 間 」です。
なくてもいい? なくてはならない?
そこで最近全従業員に読んで頂いた。
「小さい っ が消えた日」を思い出しました。
小畑さんの疑問点とは違っていると思いますが、
何か、ご参考になれば・・・・。トンチンカンかな?
もう一点感じたことは
私どもにもブライダルビデオがあります。
1回しか見ていません。
それも、ビデオテープです。
その時の映像と現在の家庭生活などを合わせて編集し
DVDなどになっていたらいいな~ なんて感じました。
当時の映像をDVDにして頂くだけでもいいなぁ~
なんて考えながらブログを拝見させて頂きました。
相変わらず低次元なコメントで申し訳ございませんでした。
奥様や阿部さんにも宜しくお伝えくださいませ。
お写真いつもありがとうございます。
投稿者: やまなし塾の岩本です。 | 2009年06月14日 14:19
○小畑@京都:どうも〜コメント有り難うございます。
「小さい っ が消えた日」ですか、有り難うございます。
探して読ませて頂こうと思います。
文章の世界と同じように映像の世界もとても奥深いと思っています。
そしてまだまだその映像の可能性に気づいていない、(放送局や制作会社でさえ)のだと思います。素晴らしい可能性に毎日ドキドキしています。
さて、
>1回しか見ていません。
>それも、ビデオテープです。
>その時の映像と現在の家庭生活などを合わせて編集し
>DVDなどになっていたらいいな~ なんて感じました。
もったいないですね〜
単にDVDにするだけではなく、再定義することにより、新たなものを創出できるかもしれませんね、
現在の映像と編集するナンテとってもステキです。
良く頂くお話しですが、ご依頼に至ったことは有りません。私達としても、5年後10年後20年後に映像が光を放ち出す瞬間は見えていますので、宜しかったら一度「お仕立て直し」させていただきますよ!
投稿者: 小畑@京都 | 2009年06月14日 14:37
○K.K:「映画の瞬き」、近所の本屋にありましたので
早速、手に入れて読み始めました。
まだ、出だしだけですが、読んでて楽しいですネ。
本を読むと意見が変わりそうですが
編集で映像をカットすることに関して
ですが・・・
それ以前に、撮影という行為も、切捨てを前提に行われる
ものなので、
とても不完全な行為だとは思っています。
あとは、映像というものは、あくまで「記号」でしかない
と感じる時はあります。こう書くと寂しく聞こえますが
やはり、全てどころか、目の前の現実の、ほんの断片しか
とらえられないカメラに映るものは・・・
しかも映ったものは、結局モニター上で光の集合体
として存在するだけで、事象のレプリカでしかないように
さえ思うのです。
では、映像には何も映ってないかといわれると
全くそうではなく、「記号」としていろんなものが散りばめられて
いると考えています。
私の思う記号とは
「51」を見て「イチロー」と思い出す感覚です。
単なる数字だけど、人の記憶や感情を刺激する
記号ですよね。
撮影は現場にある細かな記号を集めている感じがしていますし。
編集はそれを整理する作業。
それを自分自身が行うことに疑問はいつも
感じますが、そう思い続けることが大事なのかも
と思っています。
的外れな意見で申し訳ありませんが
現段階で思うことをお返事とさせてください。
影響を受けやすいので
本を読み終えたら、全然違うことを思ってるかもしれません(笑)
失礼いたしました。
K.K
投稿者: K.K | 2009年06月15日 09:29
○おばた:K.Kさんいつも編集のお手伝い有り難うございます。
また違う側面から光を当てていただいたのではないかと思います。
確かに全てを撮影出来る事もなく、また整理する作業(編集)にも「私心」が入りやすく本当に「映像で幸せに」更に「超映像で倖に」という事がぶれないように信念を持ってあたらないと、善き結果に繋がらないと思います。
常に「これで善いのか」と問い続け、色々な事に気づくことの大切さに気づくことが大事なのではないかと思っております(^o^)
投稿者: おばた | 2009年06月15日 09:36
○staff abe:岩本様
コメントありがとうございます!
その節は、大変お世話になりました。
一回しか見ないブライダルビデオ、
大変もったいないです!
多分、ほかのご家庭にもそんなブライダルビデオが
沢山眠っているのでしょう。。。
それを、新しく機能する形にし、
新たな家族の財産になる。。とっても素晴らしい事ですよね。
「間」
とても興味深いです。
言葉にできない、
いろんな物がつまっている気がします。
言葉ではそう思うのに、編集で意識する事は
少なかったように思います。
沢山のヒントを頂きありがとうございます。
また、ご多忙の中ブログに来ていただき、
大変ありがとうございます。
これから益々暑くなりますが、
お体崩されませんよう、ご自愛くださいませ。
阿部 真生子
投稿者: staff abe | 2009年06月16日 13:25
○T&Y:皆様のような思考を重ねた感想も言えずにすみませんが、貴重な一日を撮影して頂いた一人として、感想を書かせて頂きます。
式当日は、もう何がなにやら分からないまま駆け抜けた一日でしたが、後から振り返ってみると、いろんな人に登場頂いたオムニバス映画のような感じがします。
一応、、、自分達もその中の一遍として、主演を演じさせても頂いたのですが、その中で、当日こんなことを思いました。
「今この時間、あの人は新幹線で、あの人は阪急電車で、あの人は、、、と、いろんな人が、いろんな状況の中、11月1日13時知恩院に向かってきてくれているんだなぁ」と。
そう思うと、自分達だけではなく、みんな一人ひとりが主人公で、そこで、一期一会というテーマのもとに、ドラマを演じて頂いた、そんなように思いました。
そして創って頂いた作品は、今までみた映画よりも、何度も見直す作品となっています。
実は、先日式に出席して頂いた、嫁さんの親戚のおじいさんが亡くなられたんですが、そのお葬式に行く前日に、私たちが見たのは披露宴のDVDでした。照れ屋な方で、ほんの一言だけのメッセージでしたが、体調の悪い中、来て頂いたその方への感謝がDVDを見ることで改めて湧き上がり、(まさしく、私にとっては、その日だけの一期一会の出会いになってしまったのですが)心からお別れを言うことが出来たように思います。
そう思うと、ドキュメンタリー映画のようでもありますね。さっきは演じていると言いましたが、一般的な演じる、という意味とはまた違うような気もしますね。
すみません、思い出話で趣旨がずれてきてしまいましたが、今、書いていて気付いたのですが、私たち見る側にも、その見方によって、映画にもなれば、単なる記録に終わってしまったり、それ以上のものにもなるような気がしてきました。
高谷写真場さんが、映画や、映画以上のものとして、膨大な時間と、技術と、心をこめて制作し、提案して下さるからこそ、私たちも、単なる一日の記録という枠を超えて見せて頂くことができる、
そんな風に、思います。
そういう意味では、作り手、撮って頂いた側、そしてそれを見る人みんなで創り上げる映画のようにも思います。
まとまりのない、ダラダラとした文で申し訳ございません。よろしくお願い致します。
投稿者: T&Y | 2009年06月16日 23:28
○ヲバタ@唯識:T&Y ご夫妻さま〜!
いや〜私達の目指す原点のようなお話しを頂きました。有り難うございます。納品したら殆どの方とは「それでよかったのかどうか」という掘り下げた話はなかなか出来ません。お客様を沢山招いて、皆さんのビデオを掛けながら同窓会みたいなものをしたいぐらいです〜!
奥様の親戚の方ですが、多分マイク向けたら「ええわ」言うて手を振ってらした方かと存じます。(間違っていたら申し訳ありません。)
私も先日叔父が他界しました。建築の基礎屋の創業者でしたが、最後はひっそりと「家族葬」でした。私の手元には写真も何もありません。記憶だけです。
まあそれも「縁」ですから仕方のないことですが、
まだまだ試行錯誤な状態が続きますが、きっと沢山の人々の心を揺さぶる事の出来る映像集団になります。期待していてください。
お忙しい中、お時間を割いていただいて有り難うございました。
投稿者: ヲバタ@唯識 | 2009年06月16日 23:34
○T&Y:またこうして振り返る機会を頂けてよかったです。
仰るとおり、亡くなられたのは、
>向けたら「ええわ」言うて手を振ったした方
です。もう現世には、いはれへんねんなぁ、でも映像の中では、ええ顔で笑てはる。なんだか不思議な感覚ですね。
でも、本当にこうして映像に残して頂いて、本当によかったです。
最後のタイムカプセルにあったように10年、20年後にまたこの映像を見た時どんなふうに感じるのか。
その時は、子供も一緒に見てたりするんでしょうか?楽しみです。
先日、清明神社のお帰りに、嫁さんがお会いしたそうですね!
新たな展開いいですね〜!
映像の可能性、これからも期待しております。
投稿者: T&Y | 2009年06月16日 23:39
○ヲバタ@唯識:そうですね。是非皆さんにも5年10年20年後にブライダルビデオを見てご家族の中で何かを起こしていただきたいと思います。
今まではあまり無かったと思いますが、これからは撮影された映像が爆発的に発掘されてくると思います。可能性は拡がるばかりです。ドキドキわくわくです。
晴明神社さんもまだ正式にはアップされていませんが、こちらでちょろっとご覧頂けます。
ブライダルビデオだけではなく、「映像で幸せに」出来るのであれば何でもチャレンジしていきたいです。
投稿者: ヲバタ@唯識 | 2009年06月16日 23:45